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総ざらい!アンジュー帝国史 その4

【カペー】総ざらい!アンジュー帝国史【プランタジネット

アンジュー帝国史まとめその4です。手っ取り早く読みたい方は太字だけどうぞ!

前回分はこちらです。

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その4 野望の終焉(1187~1189)

(1)リチャードの葛藤

1186年の時点で、プランタジネット家の4兄弟のうち若ヘンリとジェフリーが命を落とし、リチャードとジョンが生き残った。長幼の順から言えば後継者に最も近いのはリチャードだが、彼は父への不信感を抱き続けていた。原因の一つは王位継承の不確かさ、もう一つは婚約者アリスをめぐる問題だった。

まずは前者について。ヘンリ2世は若ヘンリの死後、後継者の明言を避けるようになった。度重なる反乱や兄弟の対立を経て、彼は若ヘンリを明確な後継者として打ち出したのは誤りだったと考えたためである。イギリスの史家ギリンガム氏によれば、ヘンリはジョンを後継者にするつもりはなかったようだ(※1)。しかし結局、リチャードはジョンに地位と領地を奪われる不安に取りつかれるようになった(※2)

(※1)John Gillingham, Richard I  Norfolk,2002  (参考文献リスト参照)

(※2)リチャード自身がこう考えていたのに加えて、彼を利用しようとしたフィリップのそそのかしもあったようだ。

 

次に後者について。フランス王女アリスは1169年にリチャードとの婚約が決まり、ヘンリの宮廷に引き取られた。しかしヘンリはアリスとリチャードの婚礼をずっと引き延ばし、婚約解消も認めなかった。

その理由は様々に考えられている。よく知られているゴシップに、ヘンリが彼女を自分の愛人にしたというものがある。ただし、より政治的な理由として、彼女が持参したノルマン・ヴェクサン(王領とノルマンディーの国境地帯)を手中に収めるためだったとも考えられている(アリスがリチャードに嫁げば、同地は夫である彼のものになる)。

また婚約解消を認めないのは、彼女を通じ、弟でフランス王のフィリップ2世が新たな同盟者を得ることを防ぐ意図があったとされている。

ともかくアリスをめぐる問題はリチャードだけでなく、弟であるフィリップの反発をも招き、両者が結びつく糸口を作ることになった。

 

(2)父子の決裂

話は1186年、ジェフリーの死にさかのぼる。彼の死後、ヘンリ2世とフィリップ2世はジェフリーの領地・ブルターニュをめぐり対立を深め、1187年3月には休戦が取り決められた。

この頃リチャードは南仏のトゥールーズ伯国を攻めていたが、休戦と自分は関係ないとして戦闘を継続。これに対してフィリップはアキテーヌの王領の国境地帯であるベリーに侵攻。ここにヘンリも介入し、戦争の危機が訪れた。結局両王は矛を収め、戦を回避。再び休戦が結ばれることになる。

この休戦ののち、リチャードはフィリップに招かれてパリに滞在することになる。パリにおいて二人は親しく交流し、昼夜を分かたず共に過ごすほどだった(やましいことはない)。

これに危機感を抱いたヘンリはリチャードを呼び戻すべく何度も手紙を送った。結局リチャードはパリを後にし、アンジェで父に臣従礼を行う。しかしヘンリとリチャードの溝が埋まることはなかった。

1188年、ノルマンディーのボンムーランにてヘンリとフィリップの会見が開かれた。リチャードはそこでフィリップの傍らに現れ、ヘンリを驚愕させる。父への要求(※)が否定されると、リチャードはノルマンディーやアキテーヌなど大陸にある全領地の領主としてフィリップに臣従礼を行う。

(※)リチャードとアリスの結婚、リチャードを後継者として認めること。ヘンリはこれに対して、「受け入れがたいことを言う」と否認した。

これは父の領主権の否定であり、事実上の宣戦布告であった。このあとヘンリとリチャード・フィリップ陣営は決裂。和平交渉が行われるも功を奏さず、両者は開戦するに至った。

 

リチャード・フィリップはアンジューを奇襲。戦局は二人の有利に運び、ヘンリは生まれ故郷のル・マンに退却した。

二人はル・マン周辺の城を落とし、ついに同地を陥落させる。ヘンリは撤退し、リチャードがこれを追撃するが、しんがりを務めた騎士ウィリアム・マーシャルがこれを退けた。ヘンリは難を逃れたが、心労と病で衰弱していく。 

 

1189年7月、バイヨンにて最後の会見が開かれる。ヘンリはフィリップ側の要求を受け入れ、双方に味方する諸侯の名簿交換に同意。衰弱の激しいヘンリは馬に乗る体力もなく、担架に乗せられてシノンへと運ばれるのだった。

 

それからほどなく、ヘンリはシノン城にて死去する。上述の名簿により、最愛の息子ジョンの裏切りを知っての失意の死だった。

彼はアンジューにあり、プランタジネット家と縁の深いフォントヴロー修道院に葬られることになった。

 

リチャードは父の死報を受け、修道院で遺体と対面する。伝説によると、この時ヘンリの遺体は我が子を拒絶するかのように血を流したという。リチャードは長くとどまることはなく、幽閉中の母アリエノールを解放したのち、各地に渡って君主の地位を相続。89年9月にはイングランド王として戴冠した。

かくして「帝国」の主は変わり、いよいよ「リチャード1世」の治世が開幕するのであった。

 

つづく。