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総ざらい!アンジュー帝国史 その2

【カペー】総ざらい!アンジュー帝国史【プランタジネット

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アンジュー帝国史まとめその2です。手っ取り早く読みたい方は太字だけどうぞ!

前回分はこちらです。

akahigerobin.hateblo.jp

その2 家族の分断(1169~1174)

(1)若ヘンリの憂鬱

1169年のモンミライユの会見で、ヘンリ2世の子供たちはそれぞれの領地についてルイ7世に臣従礼を行った。長男の若ヘンリはノルマンディーとアンジューについて、次男のリチャードはアキテーヌについて、三男ジェフリーはブルターニュについてである。これによって、彼らはそれぞれの領主として公式に認められた。

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とはいえヘンリとしては完全な自治を許すつもりはなく、全領地を出来るだけ掌握したいと考えていた。このことが親子間に亀裂を生むわけだが、一番深刻だったのが長男の若ヘンリだった。

 

若ヘンリは父王の後継者として、父方の領地であるノルマンディー公国、アンジュー伯国、イングランド王国が譲渡されることになっており、実際1170年にはイングランドの共同王として戴冠も済ませていた。しかし実際の統治にかかわることはできず、領地とそれに伴う収入も得られなかった(浪費家の若ヘンリは常に借金をしていたそうだ)。この後死に至るまで、彼は常に不満をくすぶらせ続けることになる。

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 ★父王の生前に息子が戴冠するというのは、カペー朝の慣習に倣ったもの。その目的は王位継承者を明確にし王権を安定させることなので、若ヘンリの戴冠も最初から統治権の移譲は意味していなかったのかもしれない。

 ★若ヘンリ自身は政務に関心があったわけでもないので、彼の不満はむしろ父親の束縛に対して向けられていたものなんだろう。

 

そんな折の1173年、外交的地固めを進めていたヘンリ2世は、イタリア方面の守りを固めるためモーリエンヌ伯の娘と四男ジョンの婚約を取りまとめた。しかしジョンは領地をもたず、モーリエンヌ伯が婚約の見返りを求めたことで、ヘンリは若ヘンリが相続する予定だったシノン、ルーダン、ミルボーの3城をジョンに割譲するよう求めた。

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ただでさえ不満を抱えていた若ヘンリは父の要求に反発。ひそかに父のもとを抜け出し、パリのルイ7世に身を寄せることになる。

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(2)大反乱

ルイは娘婿でもある若ヘンリを歓迎し、さらに二人の弟リチャード・ジェフリーもこれに合流。さらにこの出来事は、ヘンリに脅威・不満を感じる諸勢力への呼び水となった。彼らは若ヘンリを正統なイングランド王として奉戴し、その旗印のもとに結集する。

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フランスではフランドル伯とブーローニュ伯、ブロワ伯、イングランドではノーフォーク伯やレスター伯、さらにブリテン島ではスコットランド王などが挙兵し、アンジュー帝国領に一斉に侵攻した。

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さて、この反乱の仕掛人は王子たちよりむしろアリエノールだったと考えられている。アリエノールとヘンリの関係悪化について、前項ではロザモンド・クリフォードを原因として挙げたが、それだけではなく政治的な対立もあったようだ。

アリエノールはアキテーヌも含む全領地でのヘンリの介入強化に危機感を覚えていた。それは愛息子のリチャードをはじめ子供たちの立場への危惧にもつながり、彼女は王子らの反乱を支援したのだと考えられている。ともあれ、この事件は家族間に深い亀裂をもたらすことになった。

 

実の家族も含め、敵に取り囲まれたヘンリだったが、傭兵を用いてこれに対抗。連携に欠けた反乱軍は結局各個撃破されてしまう。アリエノールは捕縛され、反乱の責任を問われて幽閉の憂き目に。ノルマンディーで戦っていたルイと若ヘンリは1174年9月に休戦を結び、下旬にはリチャードも降伏。結局モンルイで和平が結ばれ、ルイは占領した城をすべて返還、三兄弟は父王への服従を誓うことになった。

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つづく。