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総ざらい!アンジュー帝国史 その1

【カペー】総ざらい!アンジュー帝国史【プランタジネット

漫画だと細切れになってしまうので、アンジュー帝国史を一連の文章としてまとめました。プリントに対する教科書的な感じですね。今回は漫画の背景となる前史の部分です。

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その1 二つの王冠(1137~1169)

(1)百合の王冠

1137年。フランス王子ルイ(のちのルイ7世)とアキテーヌ公女アリエノールの結婚式が行われた。アキテーヌ公は唯一の子供である彼女の後見を得るため、フランス王家に縁組を申し込んできたのだった。

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カペー朝治下のフランス王国。当時は諸侯たちが群雄割拠しており、フランス王の力は乏しく、領土もわずかなものだった。特にカペー家は前任のカロリング家のような血統による正統性を持たず、宗教的権威を利用しつつ王権の維持に苦心していた。

アリエノールとの結婚で、フランス王は肥沃で広大なアキテーヌを得ることになり、この結婚は非常に重要な意味を持っていた。

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しかしルイとアリエノールは性格や育った環境が大きく異なり、折り合いがあまりよくなかった。もともと次男だったルイは聖職者教育を受けた堅物、一方のアリエノールは情熱的な芸術家肌。ルイは妻を愛していたようだが、アリエノールは夫について「まるで修道士と結婚したみたい」と漏らしていたそうだ。さらに、二人の間には後継ぎの男子も生まれなかった。

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1147年、夫婦は共に十字軍(第2回十字軍)に出征したが、これが両者の溝を深めることになる。特に途中滞在したアンティオキア公国においては、ムスリム軍に奪われたエデッサの奪還を主張するアンティオキア公に対しルイはイェルサレムへの進軍を主張。さらにアリエノールが叔父にあたる公を支持したこと、叔父・姪間の親密さがルイの疑惑を招いたこともあり、夫婦は対立。

 

ルイは「夫の権利を行使する」と彼女をアンティオキアから連れ出そうとするが、アリエノールはこれに対して「私とあなたは近親関係にあり、結婚は無効」と反論。十字軍以降、二人の仲は急速に冷え込んでいくことになる。

 

(2)獅子の王冠

一方のプランタジネット家。プランタジネットとはエニシダの意味で、アンジュー伯がエニシダの枝で帽子を飾っていたことに由来する名称だ。時のアンジュー伯ジョフロワは美男伯(ル・ベル)と称される伊達男。彼はイングランド王女(ウィリアム征服王の孫娘)マチルダと結婚し、ノルマンディー・イングランド統治権を獲得していた。そして1150年には息子のアンリ(英語名ヘンリ 以下ヘンリに統一)にノルマンディー公の地位を譲ろうとした。

 

しかしルイはこれを認めず両者は対立。結局和解が成立し、翌51年、ヘンリはノルマンディー公として、パリでルイ7世に臣従礼を行った。そしてこの時、ヘンリは王妃アリエノールと初めて出会うのだった。1152年3月、ルイとアリエノールは離婚。そしてわずか2か月後の5月、アリエノールは新たにヘンリと結婚するのだった。

 

アリエノールとヘンリの結婚により、広大な領域が彼一人の支配下に収まった。含まれる地域はヘンリがもともと所有していたアンジューと周辺の伯国(メーヌ、トゥーレーヌ)、ノルマンディー公国イングランド、1168年に征服するブルターニュ、そしてアリエノールが持参したアキテーヌ。フランス西部を占める巨大勢力圏、いわゆるアンジュー帝国」の成立である。

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共に野心家で才気煥発な二人は共に勢力拡大に乗り出し、1154年には内戦を制してイングランドを獲得、ヘンリはイングランド王ヘンリ2世として即位する。二人は大陸とイングランドを共同統治して互いの不在を補っていたが、やがてヘンリとアリエノールの間にも亀裂が入ることになった。

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その一因と言われているのが、ヘンリの愛人ロザモンド・クリフォード。美女と名高い彼女の登場により、ヘンリとアリエノールの関係も冷え込み、さらにアリエノールは彼女のいるイングランドを避けるようにして1160年代からアキテーヌに拠点を移し、同地の統治と息子リチャードの育成に集中し始める。とくに1170年にはリチャードをアキテーヌ公に任命し、領主としての権限を少しずつ委譲し始めた。

 

(3)つかの間の平穏

一方のルイは、フランドル伯やシャンパーニュ伯など東部の諸侯と協力関係を築き、アンジュー帝国との対決姿勢を固めていく。1156年にはヘンリの弟ジョフロワの反乱を支援する、1158年にはヘンリのトゥールーズ侵攻を阻止するなど、様々な手段でヘンリに対抗していった。

この対立がひとまず落ち着いたのが1169年、モンミライユの会見である。ヘンリはルイに臣従礼を行い、同時に息子たちがそれぞれ自分の領地についてルイ7世に臣従を誓った。長男若ヘンリはノルマンディー公・アンジュー伯として、次男リチャードはアキテーヌ公として、そして三男ジェフリーはブルターニュ公として。このことはすなわち、彼らが領主として認められる=アンジュー帝国が分割統治されることを意味していた。

 

しかし息子たちに分割統治を認めたことで、ヘンリは大きなトラブルに直面することになる。

 

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